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		<title>東京の歴史：東京時代</title>
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		<dc:creator><![CDATA[mybldgtokyo@gmail.com]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 13 Mar 2024 13:08:03 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[東京の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[1867年、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を明治天皇へ奏上しました。 1868年、討幕派の主導により王政復古の大号令が明治天皇より発せられ、徳川慶喜の将軍職辞職、江戸幕府の廃止等が決められました。こ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>1867年、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を明治天皇へ奏上しました。</p>



<p>1868年、討幕派の主導により王政復古の大号令が明治天皇より発せられ、徳川慶喜の将軍職辞職、江戸幕府の廃止等が決められました。これに不満を持つ旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いを起こしましたが敗北、徳川家の菩提寺であった上野の寛永寺に謹慎していた慶喜の元に集結し彰義隊を結成しました。江戸城が無血開城され、慶喜が水戸へと退去した後も彰義隊は上野寛永寺に残り、新政府軍との上野戦争が勃発、彰義隊は壊滅し、徳川家の菩提寺で江戸随一の大寺院であった上野寛永寺は焼野原と化しました。</p>



<p>江戸は東京と改称され、元号は明治と改められ、江戸城は東京城、明治天皇の城・宮城となり、東京は名実ともに日本の首都となりました。<br>1871年の廃藩置県に伴い東京府が設置され、1878年には江戸の中心部だった市街地を東京15区（麹町区、神田区＜現在の千代田区＞、日本橋区、京橋区＜現在の中央区＞、芝区、麻布区、赤坂区＜現在の港区＞、四谷区、牛込区＜現在の新宿区の一部＞、小石川区、本郷区＜現在の文京区＞、下谷区、浅草区＜現在の台東区＞、本所区＜現在の墨田区の一部＞、深川区＜現在の江東区の一部＞）とし、周辺の江戸四宿だった宿場町と農村部に6郡（荏原郡、南豊島郡、東多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡）を置きました。そして1889年には、東京15区の区域をもって東京市を設置しました。<br>江戸時代直後に定められたこの東京市15区が、かつての実質的な江戸市街だったと考えてよいでしょう。現在の千代田区と隣接5区（中央区・港区・新宿区東部・文京区・台東区）、及び明暦の大火以降に開発された隅田川以東の2区（かつて「川向う」と呼ばれた墨田区・江東区の西部）が、江戸時代から昭和半ばまで、江戸そして東京の中心部でした。東京市はほぼ、東京駅から約5km圏内の範囲でした。そもそも、東京市は直径約10kmの円に近い形で、東京駅は東京市のほぼ中心部に作られた、ということです。</p>



<p>1873年、上野戦争で焼野原となった寛永寺の大部分は上野恩賜公園となり、浅草寺の浅草公園、増上寺の芝公園、富岡八幡宮の深川公園、飛鳥山公園と共に、日本最初の公園に指定されました。</p>



<p>1872年、日本で最初の博物館・文部省博物館が湯島に創立され、1882年に現在の上野公園に移設され東京国立博物館となり、日本最古にして最大の博物館となりました。<br>1877年には、同じく文部省博物館から分離した東京博物館が上野公園に移設され、現在の国立科学博物館となりました。<br>以降、上野公園には多くの博物館・美術館等の文化施設が設立され、東京の文化の中心地となっていきました。</p>



<p>同じく1877年には、日本で最初の内国勧業博覧会が上野公園で開催されました。1881年には第二回、1890年には第三回がいずれも上野公園で開催されました。第四回が京都、第五回が大阪で行われた後、日露戦争後の財政難で第六回は中止となり、代わって政府主催ではなく東京府主催の東京勧業博覧会が1907年に上野公園で開催され、不忍池のイルミネーション、ウォーターシュート、観覧車などが評判になりました。その後も1914年に東京大正博覧会、1922年に平和記念東京博覧会、1928年に大礼記念国産振興東京博覧会が、いずれも上野公園で開催されました。</p>



<p>さらに同じく1877年、日本で最初の大学である東京大学が設立されました。当初東京大学は上野公園内に出来る計画でしたが、先の内国勧業博覧会が上野公園で開催されることが決まっていたため、隣の本郷の地に設立されることになったそうです。</p>



<p>1879年、グラント将軍がアメリカの元大統領として初めて日本を訪れ、渋沢栄一が中心となり上野公園で大歓迎会が開催され、明治天皇も行幸されました。国家的な祝祭行事は主に、上野公園で開催されることになっていきました。</p>



<p>1882年、日本で最初の動物園である上野動物園が開園しました。<br>日本で最初の遊園地である浅草花やしきは、江戸末期の1853年に植物園として開園していましたが、昭和初期までは動物園としても知られていました。日本最古のローラーコースターも現存しています。</p>



<p>1887年、現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校が上野に設立されました。現在も日本で最も大きな芸術大学であり、日本最高峰の芸術大学であり続けています。</p>



<p>1888年、日本最初の喫茶店「可否茶館」が上野に開業しました。その後浅草などにも喫茶店ができはじめ、1911年には銀座にも喫茶店が出来ました。そこには文化人たちが集い、社交場として栄えました。</p>



<p>1890年、日本初の10階以上の建物である凌雲閣が浅草に建てられ、「浅草十二階」と呼ばれ親しまれました。当時の日本で最も高い建築物で、日本初の電動式エレベーターを備えていました。1923年の関東大震災で崩落するまで、東京で初めての日本一高い建築物でした。</p>



<p>1894年、現在の丸の内の地に東京府庁舎が完成、後に東京市役所との合同庁舎となり、これが戦時中に焼失した後、1957年に東京都庁第一庁舎（丸の内庁舎）に建て替えられました。</p>



<p>日本で最初の映画館、電気館が浅草に1903年設立されました。以降、浅草六区は日本の映画興行の中心地となり、多くの演劇場や娯楽施設が立ち並び、江戸最大の歓楽街であった浅草は、浅草六区を中心に昭和初期にかけて日本一の歓楽街・興行街として繁栄しました。（現在ある「浅草ROX」はこの「浅草六区」が名前の由来となっています。）<br><br>江戸時代中期から本所の回向院では勧進相撲が興行されていましたが、1909年、その境内に旧国技館が建設されました。これが現在の両国国技館での大相撲へと繋がっていきます。</p>



<p>1920年、大学令により、福沢諭吉が設立した慶應義塾大学と大隈重信が設立した早稲田大学が、日本最初の私立大学として認可されました。<br><br>明治天皇崩御後の1920年、明治神宮が創建されました。当時は東京市外であった東京府豊多摩郡の広大な代々木の原野に人工林を植樹し作られました。</p>



<p>1923年の関東大震災で東京市の市域全面積の43.6%が焼失し、約10万人もの死者が出ましたが、帝都復興計画により東京市は大きく生まれ変わりました。<br>区画整理が行われ、東京市中心部を南北に縦断する第一号幹線昭和通り・それに交差して東西に横断する第二号幹線大正通り（現在の靖国通り）を中心部の十字の軸とし、永代通り・晴海通り・江戸通り・明治通り等の多くの幹線道路、隅田川六大橋（言問橋・駒形橋・蔵前橋・清洲橋・永代橋・相生橋）等の多くの橋、三大公園（隅田公園・浜町公園・錦糸公園）等の多くの公園、上下水道、小学校、病院、築地市場等の中央卸売市場などが整備されました。<br><br>1927年に日本初の地下鉄が上野・浅草間に開業すると、1930年には上野駅の地下道に日本初の地下商店街「地下鉄ストア」が登場しました。<br>1937年には浅草国際劇場が完成、当時は「東洋一の大劇場」と呼ばれ、松竹歌劇団を始め、恒例の美空ひばり正月公演等、ここでの公演は当時の大スターの証でした。1982年に国際劇場は閉館しましたが、この国際劇場から名前を取った国際通りには、現在日本一長い商店街があります。</p>



<p>また大正から昭和にかけて、銀座が大きく発展しました。1872年に銀座大火で焼け野原になった後、日本初の鉄道が横浜駅・新橋駅（現在の汐留駅）間に完成したのに伴い、西欧から運ばれてくる舶来品を扱う店が新橋駅近くの銀座に出始め、西欧風の煉瓦造の街並みとなりました。現在も銀座のランドマークとなっている和光の時計塔は、1895年に服部時計店（現在のセイコー／和光）によって建てられました。街路樹として柳が植えられ、後に『東京音頭』でも歌われる「花(桜)は上野／柳は銀座」が定着しました。大正時代には、「銀ぶら」という言葉も流行し始めました。<br>1910年には有楽町駅が開業しました。<br>1923年の関東大震災後には、松坂屋、松屋、三越が相次いで開店、日比谷には映画街が開発されました。<br>1933年には日本劇場（現在の有楽町マリオン）が完成、日劇ダンシングチームや日劇ウエスタンカーニバルが人気を博し、浅草国際劇場と共に60年代までは東京を代表する二大劇場でした。<br>また1934年には東洋初の地下鉄が浅草駅ー上野駅間から延伸し日本橋駅・銀座駅まで開通、当時日本一の繁華街であった浅草や上野の客が銀座にも流れて来るようになり、大きく発展しました。<br>戦後1957年には銀座線に加え丸ノ内線、1963年には都営1号線浅草線、1964年には日比谷線と、東京オリンピックまでに出来た当時の地下鉄４路線が全て銀座エリア（浅草線は東銀座）を通ることになりました。</p>



<p>1935年、永田町に国会議事堂が完成し、当時の日本で最も高い建築物になりました。</p>



<p>1932年、東京市は市域を拡張、近隣の5郡82町村を編入して新たに20区を置き東京35区となり、「大東京」となりました。1936年には北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区へ編入し、現在の東京都区部の範囲が確定しました。<br>1943年、東京市と東京府は廃止され、東京都が設置されました。<br>1947年に東京35区を東京22区に再編、板橋区から分離して練馬区が成立、現在の東京都区部・東京23区となりました。</p>



<p>江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけて、東京で最も人口が集中していたのは浅草です。<br>第２次世界大戦時の東京の人口も浅草区の13万5000人が最大で、次いで本所区・神田区・下谷区・荒川区・日本橋区等でした。<br>1945年の東京大空襲では、これらの地域が主な標的になりました。約10万人もの死者が出ました。</p>



<p>戦後、極度の食料不足から自然発生的に各所に闇市が生まれましたが、中でも上野で1950年頃から「アメリカ横丁」と呼ばれ出した「アメ横」はその後大いに賑わい、現在も東京を代表する商店街のひとつとなっています。特に、年末の買い出しでアメ横が大繁盛するのは、東京の年末の風物詩となっています。<br>1955年には、現存する日本最古の地下商店街が地下鉄の浅草駅に生まれ、現在も残っています。</p>



<p>「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれた2年後の1958年、増上寺・芝公園に東京タワーが完成、当時自立式鉄塔として世界一の高さの333mを誇り、戦後の日本復興と高度経済成長のシンボルとなり人々を勇気づけました。当初は上野公園内の建設も検討されていました。</p>



<p>スポーツでは、1903年に大隈重信創設の早稲田大学と福沢諭吉創設の慶應義塾大学による野球の対抗戦・早慶戦が始まり、東京六大学（早稲田・慶應・明治・立教・法政・東大）野球リーグへと発展しました。土日に明治神宮野球場で試合が行われ、プロ野球が始まるまでは日本野球の中心的存在でした。日本野球史上初の始球式も、アメリカ大リーグ選抜との国際親善試合も、日本初のナイターも、早稲田大学の戸塚球場で行われました。<br>1936年、東京巨人軍らによるプロ野球が開始されました。東京におけるプロチーム同士の初試合は早稲田大学の戸塚球場で行われましたが、1937年後楽園球場が小石川後楽園の隣りに建設され、巨人軍の本拠地となりました。<br>1950年には国鉄スワローズ（現在のヤクルトスワローズ）が加盟し、現在東京には２つのプロ球団があります。</p>



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<p>鉄道に関しては、遡ること1872年、東京市と横浜港を結ぶ日本初の鉄道が新橋駅（現在の汐留駅）・横浜駅（現在の桜木町駅）間に開業しました。<br>新橋駅の南から品川駅付近までは、海上に堤を築き、当時の海岸線に沿って線路が建設されました。<br>品川駅は東京市の最南端に、東海道の宿場町だった品川宿を避けて北付近、現在の品川区ではなく港区の南端の海を埋め立てて建設されました。</p>



<p>1883年、日本初の民営鉄道会社・日本鉄道が設立され、上野寛永寺の子院跡地に上野駅を開設、群馬県の富岡製糸場の生糸輸送を始めとする物流の拠点として、北日本と東京市を繋ぐ始発駅として開業しました。</p>



<p>1885年、日本鉄道は品川駅・渋谷駅・新宿駅・赤羽駅間を開業しました。当時日本鉄道の南端は上野駅、国有鉄道の北端は新橋駅で、この主要ターミナル両駅を直接結ぶのが理想的でしたが、両駅間の地上部分は東京市の中心部で市電や建物が密集しており敷設が困難だったため、当時はほぼ何もない広い野原だった東京市外の過疎地の南から西に沿って、現在の山手線の南から西側の線路と渋谷駅・新宿駅を開設したのでした。</p>



<p>1889年、新橋駅と京都駅・大阪駅・神戸駅を繋ぐ国有の東海道線が開業、西日本と東京市が繋がりました。1903年に日本鉄道は東京市外の北西の信号所に池袋駅を開設、池袋駅・田端駅間を開業、1906年には日本鉄道が国有化されました。西日本と北日本は鉄道でつながりはしましたが、品川駅から北は東京市内を避けて西側に迂回するしかありませんでした。</p>



<p>上野駅と新橋駅の間は、1882年に線路の上に馬車を走らせる日本初の馬車鉄道が新橋と日本橋を繋ぎ、日本橋の北から上野と浅草を環状に結び、東京初の環状線として完成していました。この東京馬車鉄道は1903年から次第に路面電車に置き換わり、東京市内外に張り巡らされていきました。これが1911年に東京市電となり、1943年には都電となり、現在は三ノ輪・早稲田間の都電荒川線のみが残っています。また、1923年の関東大震災で市電が一時的に運転不能になったため、1924年に東京市営バスの運行が開始され、現在の都営バスとなっています。</p>



<p>このように長い間、東京市の中心部であった上野・新橋間に大型の蒸気機関車による鉄道が無いという状態が続いていましたが、人口密集地のため反対も多くありました。そのため、日本初の高架線による東京市街線で上野・新橋間が結ばれることになり、赤レンガ造りのアーチ式高架橋が築かれ、現在の上野アメ横から御徒町・秋葉原・神田・東京・有楽町・新橋に至る「ガード下」が出来ることになったのでした。高架上に新たに新橋駅が開業（旧新橋駅は汐留駅に改称）、1914年に上野・新橋間の高架線の中間に中央停車場が完成し東京駅として開業、そしてついに1925年、上野駅・東京駅間の高架線が完成、環状運転が開始され、現在の山手線が完成したのでした。</p>



<p>かくして山手線は、上野から新橋は高架上を、新橋の南から品川は海上を、品川より西は農村の過疎地帯を走っていました。当時山手線の駅で東京市内だったのは現在の台東区・千代田区から港区の品川駅までで、それ以西の渋谷駅・新宿駅・池袋駅等は東京市外地域でしたが、その後その沿線地域は大きく発展していき、東京五輪以降には山手線沿線地域が東京の新たな中心部を形作っていきました。それまでは、江戸城・皇居と隅田川の間を中心とした地域、つまり現在の千代田区と隣接５区に墨田区と江東区の一部を加えた８区が江戸の中心部であり、その後の東京市を形成していましたが、山手線の主要駅とその周辺地域の発展に伴い、東京オリンピックの頃以降には千代田区と周辺５区に新たに渋谷区と豊島区を加えた都心８区が東京都心部を形成していくようになりました。</p>



<p>地下鉄では1927年、日本初のみならずアジア初の地下鉄が、当時の東京の二大繁華街であった浅草駅・上野駅間に開業しました。1934年に浅草・上野から神田・日本橋・銀座・新橋に延伸した東京地下鉄道は、東京市の中心部であり、江戸・東京の発展の歴史をそのまま表していたともいえます。1939年には渋谷駅まで繋がり、後に銀座線となりました。<br>戦後の1954年には、東京で２番目の地下鉄である丸ノ内線の池袋駅・御茶ノ水駅間が開業、1959年には池袋駅・新宿駅間が開業し、地下鉄２路線が東京都心８区内に通ることになりました。<br>1960年には都営1号線（後の都営浅草線）の押上駅・浅草橋駅間が開業、1961年には日比谷線の南千住駅・仲御徒町駅間が開業、1964年の東京オリンピックまでに地下鉄４路線が開業しました。</p>



<p>大手私鉄では、1897年に東武、京成、1899年に京急、1905年に京王、1912年に西武、1922年に東急、1923年に小田急が開業しました。</p>



<p>東京地下鉄は主に東京市・東京都心８区内を中心に地下鉄網を張り巡らせたのに対し、それ以外の東京の大手私鉄７社は、主に山手線の駅をターミナル駅とし、東京市・東京都心８区の外側に向けて伸展していきました。浅草駅は東武、山手線の６大主要ハブ駅で上野駅は京成、品川駅は京急、新宿駅は京王・西武・小田急、池袋駅は東武・西武、渋谷駅は京王・東急のターミナル駅として、電鉄系百貨店等の商業施設を開業するなどし、それぞれ発展していきました。</p>



<p>関東大震災で鉄道が壊滅的被害を受けたことにより、飛行機による物資輸送の重要性が高まり、1931年日本初の空港・東京飛行場（現在の羽田空港・東京国際空港）が東京市郊外の埋立地に開港しました。</p>



<p>1964年に日本初のオリンピック・東京オリンピックが開催されることになり、それに合わせて地下鉄以外にも東京のインフラはさらに大きく発展を遂げました。</p>



<p>1962年には首都高速道路が開通、国道も整備されました。<br>そして1964年には、東海道新幹線が東京駅・新大阪駅間に開業しました。<br>また、日本武道館、国立代々木競技場、駒沢オリンピック公園も新たに作られました。</p>



<p>地下鉄も、東京オリンピック以降さらに増え続け、1964年に東西線、1968年に都営三田線、1969年に千代田線、1974年に有楽町線、1978年に半蔵門線、都営新宿線、1991年に南北線、都営大江戸線、2004年には営団地下鉄が東京メトロになり、2008年に副都心線が開業しました。</p>



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<p>1958年、新宿・渋谷・池袋は、東京都心の機能分散を目的に、首都圏整備計画で副都心に指定され、以降東京三大副都心となりました。</p>



<p>1964年の東京オリンピックまでは、隅田川沿岸から山手線の東側エリアにかけての地域、つまり浅草、上野、日本橋、銀座等が東京の主要な繁華街でしたが、東京オリンピック以降は、山手線の西側エリアの新宿、渋谷、池袋も新たに大きく発展し始めました。<br>1970年から始まり現在も続く地価公示で、国土交通省は東京都区部を都心部・南西部・北東部に分け、「東京都区部都心部とは、千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、渋谷区、豊島区の各区」であるとし、江戸時代からの中心部であった千代田区と周辺5区に新たに渋谷区・豊島区を加えた都心8区が東京都心部であると定義しています。</p>



<p>1970年には、東京で初めての大規模な歩行者天国が、浅草・銀座・新宿・池袋で開催されました。1973年からは、上野と銀座の二大歩行者天国を連結、上野から秋葉原・日本橋を経て銀座に至る中央通りで、当時世界一長い5.5kmにも及ぶ歩行者天国「ジャンボプロムナード55」が毎週日曜に行われ、初日には114万人を超える賑わいとなりました。</p>



<p>1919年、中央線が新宿駅から東へ延伸し東京駅に繋がると、中央線・総武線は西は多摩地域から東は千葉まで、新宿と東京を起点として大きく東西を繋ぐ路線が完成しました。1925年には現在の山手線の上野駅・東京駅間が開業し現在の環状運転が開始されると、東京の都心を回る山手線、東京の東西を千葉から多摩まで繋ぐ中央・総武線、東京の南北を神奈川から埼玉まで繋ぐ京浜東北線という東京圏の巨大ネットワークが完成したのです。</p>



<p>また1923年の関東大震災で東京市内の密集した中心部が大きな被害を受けると、次第に東京市郊外の新宿・渋谷・池袋への移住が加速していきました。<br>そして1931年に新宿駅は、東京市外にもかかわらず、一日あたりの乗降客数が東京駅を抜いて日本一に達したのです。<br>また戦後の高度経済成長に伴う東京圏の拡大に伴い、東京市郊外（現在の23区）、多摩地域、神奈川、埼玉、千葉の郊外人口が増加し、その出入口となった新宿駅・渋谷駅・池袋駅・東京駅の乗降客数はさらに増加していきました。こうして1932年には東京市外だった地域が20区として東京市に編入され35区となり、現在の「東京23区」の範囲に拡大し、1947年には現在の「東京23区」に再編されます。</p>



<p>1932年、新宿駅のあった淀橋町が東京市に編入され淀橋区となり、1947年に四谷区・牛込区と合併し新宿区となりました。<br>新宿駅東口には、1930年に日本橋の三越が新宿に出店（現在のビックカメラ）、1933年に神田の伊勢丹が新宿に出店、東京オリンピックの年1964年には京王百貨店、1967年には小田急百貨店が開店しました。<br>戦後出来た歌舞伎町に、1956年には新宿コマ劇場（現在の新宿東宝ビル）が完成、新宿のシンボルとして人気を博しました。<br>戦後の闇市からゴールデン街も生まれました。</p>



<p>新宿駅東口に比べて開発が遅れていた西口の淀橋浄水場跡地には、1968年に新宿中央公園、1971年に京王プラザホテル、1974年に新宿住友ビルディング、新宿三井ビルディングが相次いで建設され、それぞれは当時日本で最も高い建築物でした。1991年には西新宿に東京都庁第一本庁舎が完成し都庁が丸の内から移転、当時日本で最も高い建築物となりました。丸の内の旧都庁舎跡地には、1997年に東京国際フォーラムが開館しました。</p>



<p>渋谷では、1923年の関東大震災までは品川、深川と共に火力発電所が稼働していました。1932年には東京市に編入され渋谷区となりました。東京オリンピックで代々木選手村として使用された場所は、1967年に代々木公園として開園しました。<br>1961年にセンター街ができ、1967年に東急百貨店本店、1968年に西武百貨店渋谷店、1973年に西武の渋谷PARCO、1979年に東急のSHIBUYA109が開店、またNHKはオリンピック中継のため使用した渋谷の施設を発展させて、本部を千代田区から移転させました。<br>西武のパルコ、東急の109は若者に人気となり、渋谷を若者の街にしていきました。</p>



<p>池袋は、1932年に東京市に編入され豊島区となりました。1933年に西武百貨店の前身が開店、1958年に池袋PARCOの前身が開店、1962年に東武百貨店が開店、また1978年に巣鴨プリズンの跡地にサンシャイン60が完成、当時日本で最も高い建築物となりました。</p>



<p>東京の繁華街の中心地が新宿・渋谷・池袋に移って以降、浅草・上野はかつて程の賑わいはなくなっていましたが、1982年に墨田区の錦糸町・江東区の亀戸、品川区の大崎と共に副都心に追加され東京六大副都心となり、再び賑わいを取り戻し始めました。</p>



<p>他にも、多くの街がそれぞれ大きく発展していきました。</p>



<p>1890年、上野駅から鉄道が延伸され、火除地となっていた空き地に貨物駅として秋葉原駅が誕生しました。駅は秋葉神社（現在は台東区松が谷に移転）の跡地に建てられ、「秋葉の野原」に由来する「秋葉原」という駅名が付けられました。<br>戦後、ラジオ部品を扱う闇市が集まり、次第に多くの電器店が集結するようになりました。「三種の神器」といわれた「白黒テレビ・電気冷蔵庫・電気洗濯機」の大ヒットや、松下・ソニー・東芝・日立等の日本の電気機器メーカーの大躍進に伴い、また東京の大繁華街であった浅草・上野から神田の間という地の利も活かし、秋葉原は日本一の電気街として発展していきました。<br>2000年頃からは、ゲーム、アニメ、アイドル等の「オタク」系の店が増え出し、秋葉原はサブカルチャーの聖地としての面が強くなり始めています。</p>



<p>江戸時代の明暦の大火後に築かれた築地は、1923年の関東大震災後の復興計画で、震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきたことによって、1935年魚河岸の町として生まれ変わりました。戦後は、「東京の台所」といわれ世界最大の水産物流通量を誇る築地市場となりました。<br>2018年に豊洲へ市場が移転した後でも、築地場外市場は魅力的な飲食店に溢れ賑わっています。</p>



<p>1906年に原宿駅が完成した当時、辺り一帯は東京市外の何もない野原でしたが、1920年に明治神宮が出来て以来、その最寄り駅となった原宿駅には来訪者が集まるようになりました。<br>明治神宮の表参道として整備された道は、そのまま地下鉄の駅名となりました。<br>関東大震災後に復興住宅として建設された日本最初期の近代的アパート同潤会青山アパートメント（現在の表参道ヒルズ）は、1927年に完成しました。<br>1978年にラフォーレ原宿が開店、その後も若者向けのショップが次々に開店し、80年代には竹下通りの歩行者天国に多くの若者が地方から集まるようになりました。こうして原宿とその周辺地域は、テレビ等で流される東京の流行を求めて観光客が集まる場所となりました。</p>



<p>六本木・麻布周辺は、江戸時代には武家屋敷、明治時代以降は軍事施設の町でした。終戦後に軍事施設が連合国軍に接収されると、外国人向けの店が増え始めました。<br>1980年代には、六本木スクエアビルを中心としてディスコが数十軒が立ち並び、バブル経済の象徴として栄えました。<br>2000年代には再開発により六本木ヒルズ、防衛庁の跡地に東京ミッドタウン、2023年には日本一の高さを誇る麻布台ヒルズが建てられました。<br>国立新美術館、森美術館、サントリー美術館等の美術館も多く、都内では上野に次ぐ文化・芸術の街という側面もあります。<br>一方で六本木・西麻布周辺は、1980年代は金と欲が渦巻くバブル景気の象徴として、現在でも金とコネと薬物にまつわる誘惑と闇の深い地域としても知られています。犯罪件数では新宿・渋谷・池袋等には及びませんが、アメリカ国務省は歌舞伎町よりも前に六本木を「危険地域」として挙げている（especially Roppongi, Kabuki-cho, Shibuya, and Ikebukuro）他、イギリス大使館、オーストラリア大使館も危険地域として旅行者に警告を出しています。</p>



<p>1978年、高度経済成長に伴い増え続ける国際輸送に対応するため、羽田に次ぐ新東京国際空港（後の成田国際空港）が千葉県成田市に開港しました。そして成田空港を東京都心の京成上野駅と結ぶ京成電鉄によるスカイライナーも開業しました。</p>



<p>1981年から開始された東京国際マラソンは、2007年からは東京マラソンとして、世界６大マラソン大会のひとつとなりました。新宿・秋葉原・上野・日本橋・浅草・銀座・芝・皇居等々の東京都心の中心部をめぐるコースは、世界の一般ランナーからも大きな人気を集めています。</p>



<p>1988年、後楽園球場の代替球場として、日本初の全天候型多目的スタジアム、東京ドームが完成しました。野球場としての他にも、コンサート会場として、日本武道館と共に東京を代表する場所となりました。</p>



<p>1989年、昭和天皇が崩御、激動の昭和時代がおわり、平成時代が始まりました。</p>



<p>恵比寿駅は、現在のサッポロビールの工場が「恵比寿麦酒」を出荷するための貨物駅として1901年に開業しました。工場の跡地が現在の恵比寿ガーデンプレイスに生まれ変わった1994年以降、周辺地域も発展していきました。</p>



<p>1993年、隅田川河口先の東京湾にレインボーブリッジが開通すると、1995年にお台場周辺の埋立地、台場・青海・有明エリアが臨海副都心として副都心に追加され、東京七大副都心となりました。新橋駅・有明駅間に新交通ゆりかもめも開業、次々と新しいビル・公園・施設が生まれ、一気に東京の新名所となっていきました。</p>



<p>1988年に有楽町線の月島駅が開業し、2000年に都営大江戸線が開業して以降、月島は急速に発展、もんじゃ焼店が急増し、月島もんじゃストリートが出来ていきました。</p>



<p>1988年に有楽町線の豊洲駅が開業し、2006年にゆりかもめが豊洲駅まで伸びると、豊洲は新エリアとして人気を博すようになりました。2018年には豊洲市場が築地から移転し開業、さらに多くの人が集まるようになりました。</p>



<p>1980年代頃から90年代、2000年代以降は、山手線の外側、都心部（都心8区）の外側の地域も急速に発展していきました。北は荒川区・足立区・北区・板橋区、さらに埼玉県、東は墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区、さらに千葉県、西は中野区・練馬区・杉並区・世田谷区、さらに多摩地域、南は品川区・目黒区・大田区、さらに神奈川県と、東京の発展地域は拡大し続け、１都３県は「東京圏」と呼ばれ発展し続けています。<br>神奈川県には、横浜中華街、横浜みなとみらい21、横浜アリーナ、八景島シーパラダイス、よこはま動物園ズーラシア、多摩地域には、多摩動物公園、よみうりランド、東京サマーランド、昭和記念公園、三鷹の森ジブリ美術館、埼玉県には、国営森林公園、羊山公園、東武動物公園、さいたまスーパーアリーナ、埼玉スタジアム2002、千葉県には、マザー牧場、鴨川シーワールド、幕張メッセ、東京ディズニーランド、東京湾アクアライン・海ほたる、等々が次々にオープンし、東京圏有数の観光地となっています。<br>さらに北関東３県を加えた関東地方に山梨県を加えた「首都圏」も、大きく発展を続けています。</p>



<p>2011年、東日本大震災が発生、東京都内でも震度5強を観測、また福島の原発事故により大きな影響を受けました。</p>



<p>2012年、世界一高い自立式鉄塔、東京スカイツリーが完成しました。<br>634mの高さは、東京都のかつての名称、武蔵国の語呂合わせも考慮されています。東京の歴史の始まりともいえる浅草寺が創建された628年に因み、628mの案もあったと当時社長は語っていました。<br>最寄り駅の業平橋駅は、とうきょうスカイツリー駅に改称されました。業平橋は、在原業平に由来しています。さらにその前の1931年までは、業平橋駅は浅草駅という名称でした。当時はかなり広い範囲が「浅草」として認識されていたことが分かります。<br>また、東京スカイツリーの建設候補地として、東京タワーの時と同様に当初は上野公園も挙がっていました。実現していれば、江戸城の表鬼門を守護していた江戸・東京最強のパワースポット上野東照宮の地・上野寛永寺跡地の上野公園に東京スカイツリー、裏鬼門を守護していた芝東照宮の地・芝増上寺跡地の芝公園に東京タワーという結界が実現していたところでした。とはいえ、現在の浅草の西方の地は十分に表鬼門を守護するパワースポットの範囲内ではあります。かつて江戸の浅草と芝に浅草寺と増上寺があって江戸を守護していたように、現代の東京の浅草と芝には東京スカイツリーと東京タワーが存在しています。</p>



<p>2016年、上野の国立西洋美術館は、「ル・コルビュジエの建築作品」のひとつとして、東京都で初めて世界文化遺産に指定されました。</p>



<p>2019年、平成天皇が退位、令和時代が始まりました。</p>



<p>2020年には、東京オリンピックに合わせ、高輪ゲートウェイ駅が開業、山手線では1971年に開業した西日暮里駅以来初めてとなる新駅ができました。この駅の建設工事中に、約150年前に日本初の鉄道が海上に築かれた跡である高輪築堤が出土し、国の史跡として保存され、2027年に公開が予定されています。駅名の公募では「高輪駅」が１位でしたが、JRが多くの反対を押し切って「ゲートウェイ」を足したのは、かつての江戸の玄関口・江戸四宿のひとつ品川宿・高輪大木戸があったこの品川周辺地域を、東京の新たな玄関口として開発していきたいからとのことでした。</p>



<p>2020年、東京で二回目となる東京オリンピックは、2019年末に中国で発生した新型コロナウイルス感染症の世界的拡大によって大会史上初めて延期となり、2021年にほぼ無観客ではありましたが開催されました。</p>



<p>2023年、日本一高い330mのビル、麻布台ヒルズが開業しました。</p>
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		<title>東京の歴史：江戸時代</title>
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		<dc:creator><![CDATA[mybldgtokyo@gmail.com]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 17 Sep 2023 14:24:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[東京の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[江戸という地名は元々隅田川の河口付近のことで、平安時代末期には桓武平氏、秩父氏の支流の江戸氏が住んでいました。1180年、源頼朝の隅田川渡河のための舟橋作りに協力したのは、江戸重長でした。1457年、上杉家の家臣の太田道 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p><strong>江戸</strong>という地名は元々<strong>隅田川</strong>の河口付近のことで、平安時代末期には<strong>桓武平氏</strong>、<strong>秩父氏</strong>の支流の<strong>江戸氏</strong>が住んでいました。1180年、<strong>源頼朝</strong>の隅田川渡河のための舟橋作りに協力したのは、<strong>江戸重長</strong>でした。<br>1457年、<strong>上杉家</strong>の家臣の<strong>太田道灌</strong>はこの地に<strong>江戸城</strong>を築きました。当時の江戸城は、まだ小さな平山城でした。その後1524年、江戸城は<strong>小田原城</strong>主<strong>北条氏綱</strong>の支配下に入りました。<br>江戸城は北条氏によって、関東の水路と陸路が集中する重要な物流拠点となっていきました。</p>



<p>1590年、<strong>豊臣秀吉</strong>・<strong>徳川家康</strong>らは氏綱の孫・<strong>氏政</strong>とその子<strong>氏直</strong>を<strong>小田原征伐</strong>で破り、家康は<strong>関東八国</strong>250万石を与えられ、<strong>駿府城</strong>から江戸城へ拠点を移しました。北条攻めの際、家康が信任する慈眼大師<strong>天海</strong>と浅草寺の住職・<strong>忠豪</strong>上人も陣幕にいたそうです。<strong>源氏</strong>の末裔を自負する家康は、天海の進言もあり、源氏一族からの篤い庇護を受けてきた浅草寺を徳川家の<strong>祈願所</strong>に定め、寺領500石を寄進しました。</p>



<p>家康がまず着手したのは、水路と平地の整備です。関東最大の<strong>塩</strong>の生産地であった<strong>行徳</strong>からの水路を確保するため、江戸城から東へ<strong>道三堀</strong>を掘り隅田川に繋げ、隅田川から<strong>小名木川</strong>を掘り繋げました。道三堀には<strong>日本橋</strong>が架橋されました。<br>そして飲み水を確保するため、<strong>小石川上水</strong> （後の<strong>神田上水</strong>）の建設も開始しました。<br>当時、荒川は<strong>利根川</strong>に合流し、利根川は千住付近で隅田川に合流し江戸湊に注いでおり、頻繁に氾濫を起こしていました。そのため、利根川は東へ付け替えられ、後に現在のような日本最大の流域面積を持つ川となり、坂東太郎と呼ばれました。そして荒川は、下流が隅田川に合流するように付け替えられました。（その後荒川～隅田川は、明治末の氾濫後に荒川放水路が建設され、それが現在の荒川となりました。）<br>さらに、<strong>神田山</strong>を切り崩し、その土で<strong>日比谷入江</strong>を始め数多く点在していた汐入地を埋め立てました。また、江戸城を拡張すると同時に、周りを多くの内濠・外濠で囲み、防衛・上水・物流能力を向上させました。こうして江戸城は、日本最大規模の広さにまで拡大していきます。</p>



<p>1600年の<strong>関ヶ原の戦い</strong>に勝利した家康は、1603年<strong>征夷大将軍</strong>に就任、<strong>江戸幕府</strong>を開きました。これにより江戸は、実質的に日本の政治首都となりました。</p>



<p>隅田川（別名：<strong>大川</strong>）に最初の橋である<strong>大橋</strong>（後の<strong>千住大橋</strong>）が架けられたのは1594年で、その付近に<strong>千住宿</strong>を設け、江戸の北への玄関口とし、<strong>日光街道</strong>と<strong>奥州街道</strong>を整備しました。<br>1601年、<strong>江戸前島</strong>の尾根道を新たに<strong>東海道</strong>とし、南の港町に<strong>品川宿</strong>（現在の品川駅のやや南）を設けました。<strong>中山道</strong>には<strong>板橋宿</strong>（現在の板橋区役所付近）が設けられました。<br>そして1604年には、日本橋を「<strong>五街道</strong>（日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道・東海道）」の起点として定めました。<br>五街道のうち<strong>甲州街道</strong>のみ約100年間、四谷見附門を出てから最初の宿場が遠くの高井戸宿で、江戸近郊に宿場がありませんでしたが、浅草の名主であった商人たちが莫大な金額を上納して宿場開設を願い出たことにより、1699年に<strong>内藤新宿</strong>（現在の新宿駅のやや東）が設けられました。<br>日本橋から約２里、江戸市街を出て最初の宿場町、千住宿、品川宿、板橋宿、内藤新宿は<strong>江戸四宿</strong>と呼ばれました。その後、千住は北へ、品川は南西へ、板橋は北西へ、新宿は西への、江戸・東京市の出入口として発展していきます。</p>



<p>当時、表鬼門の方角である北東と、裏鬼門の方角である南西は、鬼神様の通る神聖な出入口とされ、畏敬の念を持って祀ることが必要であるという迷信が信じられていました。京都の<strong>平安京</strong>も、北東の表鬼門を<strong>比叡山延暦寺</strong>、南西の裏鬼門を<strong>石清水八幡宮</strong>によって守護されていました。<br>これにならって天海は、家康・<strong>秀忠</strong>・<strong>家光</strong>の三代に渡って江戸の街づくりに進言をしてきました。<br>江戸城はそもそも、平氏・源氏を始めとする代々の名門武家の関東支配者から篤い庇護を受けてきた霊験あらたかな浅草寺の南西に建てられており、表鬼門を徳川家の祈願所・浅草寺に守護されている形になっていました。さらに、はるか南西の裏鬼門域内には、徳川家が先祖とした源氏の氏神である鎌倉の<strong>鶴岡八幡宮</strong>がある位置でした。またさらに、当時は表鬼門方向に<strong>筑波山</strong>、裏鬼門方向に<strong>富士山</strong>が江戸からよく見えたはずで、<strong>歌川広重</strong>の「<strong>名所江戸百景</strong>」でも頻繁に富士山と筑波山は描かれています。<br>1598年には徳川家の菩提寺である<strong>増上寺</strong>を、江戸城の裏鬼門域内の現在の<strong>芝</strong>の地に移転しました。<br>1616年には関東の守護神・<strong>平将門</strong>公を祀る<strong>神田明神</strong>を、江戸城の表鬼門域内の現在の<strong>湯島</strong>台地に移転しました。<br>1625年に家光は、表鬼門域内の<strong>上野</strong>の台地に<strong>東叡山寛永寺</strong>を創建し、芝の増上寺と共に徳川家の<strong>菩提寺</strong>とし、天海大僧正は自ら初代住職となりました。東叡山は東の比叡山を意味します。代々の山主に皇室を迎え、日本随一の大寺院となっていきました。<br>最後に1659年四代将軍<strong>家綱</strong>は、現在の<strong>日枝神社</strong>である<strong>江戸山王大権現</strong>を、裏鬼門域内の現在の<strong>赤坂</strong>の地に移転しました。<br>こうして江戸城は、表鬼門を浅草寺・湯島の神田明神・上野の寛永寺、裏鬼門を芝の増上寺・赤坂の日枝神社に守護される強力な霊的布陣を持つ城となり、名実共に日本一の城となったのです。<br>江戸・東京では昔から、「観音さま」といえば浅草寺、「三社さま」といえば浅草神社、「明神さま」といえば湯島の神田明神、「山王さま」といえば赤坂の日枝神社と、江戸・東京の「神さま仏さま」として親しまれています。後に『東京音頭』や高倉健の『唐獅子牡丹』でも、浅草寺は「幼馴染の観音様」と歌われています。また、江戸時代以前からあった神田祭、三社祭に加え、江戸時代以降は山王祭、1627年に創建された富岡八幡宮の深川祭も行われるようになり、人気を博しました。</p>



<p>1616年に徳川家康が亡くなると、その遺言に従い秀忠は<strong>久能山</strong>に<strong>東照宮</strong>を創建し祀り、そして1617年に日光に<strong>日光東照宮</strong>を創建し改葬し、「<strong>東照大権現</strong>」として祀りました。後に家光が絢爛豪華な姿に改築しました。<br>また芝の増上寺内には<strong>芝東照宮</strong>も創建されました。1618年、秀忠は徳川家の祈願所であった浅草寺内にも東照宮を創建しました。さらに1627年、上野の寛永寺内に<strong>上野東照宮</strong>も創建されました。浅草東照宮は1642年に焼失しましたが、家光はこれを再建せず、1651年に上野東照宮を日光に準じた金色殿に改築しました。上野東照宮は後の上野戦争・関東大震災・東京大空襲も免れて、現在も当時そのままの姿を残しています。このことからも、上野東照宮は現在も東京最強のパワースポットと呼ばれ、日光・久能山・上野東照宮は<strong>三大東照宮</strong>、もしくは芝東照宮を加え<strong>四大東照宮</strong>とされています。東照宮においても、江戸城の表鬼門・上野と裏鬼門・芝を東照大権現・家康が守護し、さらに日光東照宮が北東の表鬼門から、久能山東照宮が南西の裏鬼門から、日本一の山・富士山を守護する形となっています。</p>



<p>これらの「神さま仏さま」に守護された浅草・上野・本郷・神田・芝・赤坂、そしてこれらを結ぶ江戸城周辺地域・日本橋等は、多くの人々がおまいりし集い賑わい、江戸の文化・経済・政治の中心地として大いに繁栄していきました。さらに明治・大正・昭和になっても東京市の中心部として、戦後も東京都心部として、さらなる発展を続けていくことになります。</p>



<p>家康以降の徳川歴代将軍は、家光・慶喜以外は菩提寺である芝の増上寺と上野の寛永寺に六名ずつ祀られています。<br><strong>日光山輪王寺</strong>には三代家光公、芝の増上寺には二代秀忠公、六代<strong>家宣</strong>公、七代<strong>家継</strong>公、九代<strong>家重</strong>公、十二代<strong>家慶</strong>公、十四代<strong>家茂</strong>公、上野の寛永寺には四代家綱公、五代<strong>綱吉</strong>公、八代<strong>吉宗</strong>公、十代<strong>家治</strong>公、十一代<strong>家斉</strong>公、十三代<strong>家定</strong>公の霊廟が祀られました。最後の十五代<strong>慶喜</strong>公は、大正2年に<strong>寛永寺谷中霊園</strong>に神式の円墳で埋葬されました。</p>



<p>1657年四代将軍家綱の頃、<strong>明暦の大火</strong>が起こり、本郷・小石川・麹町から出た火は江戸の町の大半を焼きつくし、江戸城天守も焼け落ち、江戸時代最大の被害となる10万人ともいわれる死者を出しました。これを契機に、様々な江戸の都市改造が行われました。<br>当時大川（隅田川）には大橋（千住大橋）しか橋がなく、逃げ遅れた人々が多く犠牲となりました。そのため、隅田川に２番目の橋、<strong>両国橋</strong>（武蔵国と下総国の両国に架かる橋）が架けられました。そして下総国だった隅田川東岸に<strong>本所</strong>と<strong>深川</strong>の町を開発し、その後江戸川以西を武蔵国に編入しました。両国橋の先の本所には、死者を葬るために回向院が築かれました。回向院では1768年以降、相撲が興行されるようになり、今日の両国国技館の大相撲の起源となりました。さらに、<strong>築地</strong>などの埋立地も拡大させました。<br>その後隅田川には、<strong>新大橋</strong>、<strong>永代橋</strong>、<strong>吾妻橋</strong>の計５つの橋が江戸時代に架けられました。</p>



<p>さらに延焼拡大を防ぐ防火壁としての役割も兼ねて、家綱は浅草の隅田川両岸に<strong>桜</strong>並木を整備しました。後に八代将軍吉宗も、さらなる防火と川の氾濫防止として花見客が土手を踏み固めるため、さらに上野に集中していた花見客の分散のため、1717年隅田川沿いに桜100本を植え足しました。<br>1625年の上野寛永寺創建の際、天海は奈良の<strong>吉野山</strong>から桜を運び、境内の至るところに移植していました。これが次第に江戸市民の間で評判となり、1827年に発行された『<strong>江戸名所花暦</strong>』には、江戸で一番の花（桜）の名所は東叡山（寛永寺）と紹介されました。<br>こうして上野と浅草は、江戸市民の花見の名所としても人気を博していきました。<br>江戸時代で最も有名な俳人、<strong>松尾芭蕉</strong>はこう詠んでいます：「花の雲　鐘は上野か　浅草か」<br>その後吉宗は、江戸郊外の<strong>御殿山</strong>や<strong>飛鳥山</strong>にも桜を整備しました。</p>



<p>また火除地として、<strong>広小路</strong>の整備も行われました。そして広小路はその後、江戸市民が集まる盛り場として大いに栄えました。中でも、<strong>江戸三大広小路</strong>として最も栄えたのは、<strong>浅草広小路</strong>（現在の雷門通り）、<strong>下谷広小路</strong>（現在の上野中央通り～上野広小路）、<strong>両国広小路</strong>（現在の東日本橋）でした。<br>浅草寺境内に出来た<strong>仲見世</strong>は、日本で最も古い商店街の一つです。また、1662年日本橋に<strong>白木屋</strong>、1683年日本橋に三井呉服店（現在の<strong>三越</strong>）、1743年日本橋に大丸屋（現在の<strong>大丸</strong>）、1768年上野にいとう呉服店（現在の<strong>松坂屋</strong>）が開店し、白木屋以外は現在も続いています。他にも、<strong>江戸の三大繁華街</strong>であった浅草、上野、日本橋近辺には、江戸時代から現在も続く店が多く残っています。</p>



<p>こうして江戸は、人口約100万人を超える世界最大の都市となっていったのです。</p>



<p>1867年、第十五代将軍徳川慶喜は<strong>大政奉還</strong>を行い、江戸時代は終わります。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" src="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/東京市15区.jpg" alt="東京市15区" class="wp-image-3069"/><figcaption class="wp-element-caption">東京市15区</figcaption></figure>



<p><br></p>
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		<title>東京の歴史：浅草時代</title>
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		<dc:creator><![CDATA[mybldgtokyo@gmail.com]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 03 Sep 2023 07:09:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[東京の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[東京の歴史というと、“江戸時代から始まり…”という記述をよくみかけますが、江戸城が出来るはるか前から浅草は栄えた町でした。飛鳥時代に浅草寺が創建されて以降、平安時代に在原業平の東下りによって都でもよく知られるようになった [&#8230;]]]></description>
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<p>東京の歴史というと、“江戸時代から始まり…”という記述をよくみかけますが、江戸城が出来るはるか前から<strong>浅草</strong>は栄えた町でした。飛鳥時代に浅草寺が創建されて以降、平安時代に在原業平の東下りによって都でもよく知られるようになった東国のこの地域は、関東を支配し浅草寺を庇護してきた<strong>平氏</strong>によって大きく繁栄しました。続いて関東を支配し日本の政治を担った<strong>源氏</strong>の鎌倉幕府にとっても、浅草寺は重要な寺院でした。その後も浅草寺は、<strong>足利氏</strong>、<strong>上杉氏</strong>、<strong>後北条氏</strong>、そして源氏の末裔を自負する<strong>徳川家康</strong>にも庇護されました。これらの歴史があったからこそ、浅草は江戸随一の繁華街として繁栄することになったのです。</p>



<p>東京の歴史を大別すると、浅草時代、江戸時代、東京時代の３つに分けることもできるでしょう：<br>　浅草時代：　７世紀～17世紀　飛鳥時代～安土桃山時代<br>　江戸時代：　17世紀～19世紀　江戸時代<br>　東京時代：　19世紀～　明治時代～令和時代</p>



<p>ここでは、江戸時代以前の東京、浅草の歴史を振り返ります。</p>



<p><strong>飛鳥時代</strong>の<strong>628年</strong>（飛鳥京では聖徳太子と共に仏教を本格的に取り入れ仏教寺院の建立を推進した推古天皇が崩御した年）、<strong>隅田川</strong>（古くは住田河、須田川、墨田川等々）沿いに、観音像を発見した漁師の檜前浜成・竹成兄弟と土地の長・土師中知（後の三社様）によって、東京最古の寺、<strong>浅草寺</strong>が創建されました。<br>当時の浅草は小さな漁村で、浅草寺も小さな寺でしたが、645年（日本最初の元号・大化元年、中大兄皇子 (後の天智天皇) が中臣鎌足 (後の藤原鎌足、藤原氏の始祖) らと共に大化の改新を始めた年）に勝海上人が観音堂を建立し、その後浅草寺と浅草は宗教的な聖地として次第に発展していきました。</p>



<p>飛鳥時代から<strong>奈良時代</strong>にかけて<strong>五畿七道</strong>が整備されると、<strong>武蔵国</strong>と<strong>下総国</strong>の国境となった隅田川を渡る「<strong>橋場の渡し</strong>（住田の渡し、白鬚の渡し）」も整備され、交通の要所として浅草は栄えていきました。約3km西、現在の谷中霊園の場所には駅家の「<strong>豊嶋駅</strong>」も置かれていました。<br>708年に<strong>秩父</strong>で<strong>銅</strong>が発見されたことにより、日本初の流通通貨である<strong>和同開珎</strong>が発行されると、武蔵国の重要性は大きく増していきました。<br>771年には、南の海沿いの道の往来が活発になるに従って、武蔵国は東山道から<strong>東海道</strong>へと変更され、より利便性が増していきました。<br>後の10世紀に編纂された「延喜式」によると、全国68国は国力により大国・上国・中国・下国の四等級に分類されていましたが、武蔵国は坂東の上野国・常陸国・下総国・上総国と共に、<strong>大国</strong>13国のひとつでした。</p>



<p><strong>平安時代</strong>初期、日本最古の歌物語である<strong>伊勢物語</strong>が刊行されると、<strong>在原業平</strong>の<strong>東下り</strong>とその折の句「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 我が思ふ人は 有りや無しやと」により、隅田川と「橋場の渡し」は都にも広く知られる存在となりました。<br>平安後期には、<strong>二条為子</strong>による<strong>玉葉和歌集</strong>中の句「ことゝへど こたへぬ月の すみだ河 都の友と 見るかひもなし」は後世の江戸時代まで広く親しまれました。<br>現在の「言問団子」、「言問橋」、「言問通り」、「業平橋」は、これらが元になっています。</p>



<p>898年、<strong>桓武天皇</strong>の孫にあたる<strong>桓武平氏</strong>の<strong>平高望</strong>が<strong>上総介</strong>に任じられ、その後一族は関東に土着し武士団を形成、<strong>坂東平氏</strong>として関東の開発を進め勢力を拡大し繁栄しました。坂東平氏はその後、鎌倉幕府で執権を担った<strong>北条氏</strong>や<strong>秩父氏</strong>、<strong>江戸氏</strong>など、多くの坂東武者を生み出していきます。</p>



<p>935年、平氏内の争いから、高望の孫である<strong>平将門</strong>の乱が始まります。将門は、京の都の腐敗した貴族社会と朝廷の圧政に反旗を翻し、重税に苦しむ関東の民衆のために立ち上がり、「新皇」を名乗り<strong>坂東八国</strong>を手中に収め関東の政治改革をはかろうとしました。しかし、朝廷が将門の首に懸賞をかけたことにより、名だたる武将たち、<strong>平貞盛</strong>（将門と同じく高望の孫、後に平将軍と呼ばれた伊勢平氏・正盛・忠盛・清盛の祖先）やその母方の叔父<strong>藤原秀郷</strong>（藤原北家、俵藤太と呼ばれた奥州藤原氏の祖先）らによって乱は鎮圧されました。獄門となった将門は怨霊になったという伝説は有名で、現在も千代田区大手町にある<strong>将門塚</strong>は、移転すれば祟りが起こるとされています。その後1309年、東国の民衆の英雄、平将門は<strong>神田明神</strong>に祀られました。</p>



<p>942年、同じく高望の孫である<strong>平公雅</strong>は藤原秀郷の後任として<strong>武蔵守</strong>となり、将門の乱によって荒れ果てた浅草・浅草寺を再建、大規模な七堂伽藍を建立、新たに<strong>五重塔</strong>と<strong>雷門</strong>を創建、田園数百町を寄進しました。</p>



<p>1028年（藤原道長が亡くなった年、まさに嵐が始まりました）、平将門の娘の子であり平公雅の娘を妻にもつ上総介、<strong>平忠常</strong>が房総三国で乱を起こしましたが、「道長四天王」の一人だった<strong>源頼信</strong>が朝廷に遣わされ乱を平定しました。頼信は多くの関東の武士たちを味方につけ、これが源氏が東国で力を持つきっかけとなりました。</p>



<p>1051年、<strong>前九年の役</strong>が起こり、源頼信の子で陸奥守であった<strong>源頼義</strong>はその子「八幡太郎」<strong>源義家</strong>と共に、東国の武士を率いて陸奥国の<strong>安倍氏</strong>を滅ぼしました。1070年、義家は奥州征討の途次に浅草寺に戦勝を祈願しています。そして1083年、<strong>後三年の役</strong>が起こり、陸奥守となった源義家が<strong>奥州藤原氏</strong>（藤原秀郷の子孫）と共に陸奥・出羽の<strong>清原氏</strong>の乱を平定しました。この時東国武士たちに朝廷からは恩賞は出ませんでしたが、義家は私財から恩賞を出し、これにより源氏は<strong>東国武士団</strong>の棟梁としての地位を固め、関東は源氏、東北は奥州藤原氏が支配するようになりました。</p>



<p>一方関西では1108年、源義家の子・<strong>源義親</strong>が出雲国で起こした乱を<strong>平正盛</strong>が平定したのをきっかけに、上皇に仕える<strong>北面武士</strong>として、以降<strong>忠盛</strong>、<strong>清盛</strong>が<strong>伊勢平氏</strong>の勢力を拡大させていきました。</p>



<p>1156年、京都で<strong>保元の乱</strong>が起こり、<strong>崇徳上皇</strong>側についた源義親の子<strong>源為義</strong>は、その子である<strong>源義朝</strong>と<strong>平清盛</strong>がついた<strong>後白河天皇</strong>に敗れました。東国で育った源義朝は、東国武士団を率いて戦功を挙げました。源義朝が1142年に浅草寺に奉納した榎観音像は現在も残っています。</p>



<p>しかし1160年、<strong>平治の乱</strong>で源義朝が平清盛に敗れると、関東は再び平氏の勢力下に入り、義朝の子<strong>源頼朝</strong>は伊豆へ流されました。</p>



<p>しかしその後頼朝は次第に関東で味方を集め、ついに1180年に挙兵しました。一度は戦いに敗れましたが、再起を図り総州を北上、難関の隅田川では<strong>江戸重長</strong>の助けを借り舟を繋げて橋を作り渡河、父義朝ゆかりの浅草寺で勝利を祈願し、かつて父義朝と住んだ鎌倉へ入り本拠地としました。1181年、頼朝は<strong>鶴岡八幡宮</strong>を建て直すために、鎌倉には技術を持った工匠がいなかったため、浅草の宮大工を召し出して工事を完成させました。鶴岡八幡宮の参道である<strong>若宮大路</strong>は、浅草寺の方角を向くように作られました。</p>



<p>そして1185年、源頼朝はついに平家を滅ぼし、<strong>鎌倉幕府</strong>を開きました。<br>1189年の奥州藤原氏征討の際には、頼朝は戦勝を願って浅草寺に土地を寄進しました。<br>頼朝はその子実朝と共に、西国三十三観音札所にならって、坂東にも<strong>三十三観音札所</strong>を制定しました。浅草寺は、東京都内では唯一の札所です。また、浅草寺の御神木のイチョウは、源頼朝が挿した枝が根付いたものと伝えられています。</p>



<p>1338年に<strong>室町幕府</strong>初代将軍となった源氏一門の<strong>足利尊氏</strong>は、1352年に浅草寺へ参り、寺領を安堵しました。1413年には、第4代<strong>鎌倉公方</strong>であった<strong>足利持氏</strong>が、浅草寺の経蔵を再建して寄進しました。<br>室町時代には、鎌倉公方の補佐役で武蔵守護も兼任していた<strong>関東管領</strong>を代々上杉氏が世襲し実質的に関東を支配していました。上杉家家臣の<strong>太田道灌</strong>は1457年、千葉氏が治める川向うの下総に攻め込むため、隅田川の河口付近の江戸に<strong>江戸城</strong>を築いていました。</p>



<p>1495年、<strong>伊勢宗瑞</strong>（後の<strong>北条早雲</strong>）が<strong>今川氏</strong>の力を借り伊豆・相模に攻め入って<strong>小田原城</strong>主となり、戦国時代の幕を開けました。<br>その子<strong>北条氏綱</strong>（「勝って兜の緒を締めよ」の遺言で有名）は、鎌倉時代に関東を支配した執権・北条氏の姓を名乗り、1523年に武蔵国に進出、1524年には江戸城を奪い支城とし、浅草寺を祈願所とし1539年に堂塔を再建しました。<br>さらにその子<strong>北条氏康</strong>は下総に進出、駿河の<strong>今川義元</strong>・越後の<strong>上杉謙信</strong>（最後の関東管領）・甲斐の<strong>武田信玄</strong>と同盟・対決を繰り返しながらも、関東最大勢力の戦国大名となりました。<br>そして1590年、氏康の子<strong>北条氏政</strong>とその子<strong>氏直</strong>が<strong>小田原合戦</strong>で<strong>豊臣秀吉</strong>と<strong>徳川家康</strong>らに敗れたことによって、家康が江戸城へやって来ることになるのです。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="1682" height="1511" src="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/安土桃山時代の東京.jpg" alt="安土桃山時代の東京" class="wp-image-3574" srcset="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/安土桃山時代の東京.jpg 1682w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/安土桃山時代の東京-300x270.jpg 300w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/安土桃山時代の東京-800x719.jpg 800w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/安土桃山時代の東京-768x690.jpg 768w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/安土桃山時代の東京-1536x1380.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1682px) 100vw, 1682px" /><figcaption class="wp-element-caption">安土桃山時代の東京</figcaption></figure>
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		<title>「かっぱ橋通り」は2つある</title>
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		<dc:creator><![CDATA[mybldgtokyo@gmail.com]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 02 Jul 2023 09:17:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[東京の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[「かっぱ橋」というと、東京都台東区の「かっぱ橋道具街」のことを思い浮かべる方が多いかと思いますが、実は「かっぱ橋通り」は２つあります：「かっぱ橋本通り」と「かっば橋道具街通り」です。 新堀川にかかる橋「合羽橋」がまずあっ [&#8230;]]]></description>
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<p>「かっぱ橋」というと、東京都台東区の「かっぱ橋道具街」のことを思い浮かべる方が多いかと思いますが、実は「かっぱ橋通り」は２つあります：<br>「かっぱ橋本通り」と「かっば橋道具街通り」です。</p>



<h2 class="wp-block-heading">新堀川にかかる橋「合羽橋」がまずあって、交差する2つの通りが後に「かっぱ橋通り」と名付けられた</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" src="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Edo-Ueno-Asakusa-Map-scaled.jpg" alt="Edo Ueno Asakusa Map" class="wp-image-2340"/><figcaption class="wp-element-caption">江戸上野浅草絵図 （出典：東京都立図書館 東都下谷絵図(部分)と国立国会図書館 今戸箕輪浅草絵図(部分)をMYビルが編集）</figcaption></figure>



<p>この江戸時代の地図の通り、江戸幕府の重要な2つの寺であり文化の中心地でもあった上野の寛永寺（徳川家の菩提寺）と浅草の浅草寺（徳川家の祈願所）を最短で結んでいた道、将軍や高僧が通る御成道だったのが、現在の「かっぱ橋本通り」です。</p>



<p>その途中にあった新堀川にかかっていた橋が「合羽橋」でした。当時度々氾濫していたこの川を、雨合羽屋だった合羽屋喜八（合羽川太郎）が私財を費やして整備を行った際、その良心に心を打たれた河童達が工事を手伝ったという伝説もあり、「合羽橋」の名がつけられたといわれています。</p>



<p>新堀川が大正時代の関東大震災後に暗渠化され、次第に飲食関連の商店が集まり出来たのが、現在の「かっぱ橋道具街通り」です。</p>



<p>橋「合羽橋」があった場所は現在、２つの「かっぱ橋通り」が交わる「合羽橋」交差点となっています。</p>



<p>現在「かっぱ橋道具街」は全国的にも海外からの観光客からも有名な観光地となりました。<br>一方「かっぱ橋本通り」も、毎年７月に開催される「下町七夕まつり」や、東京スカイツリーを根元から上まで綺麗に見える通りのひとつとしても知られています。</p>



<p>また「かっぱ」は、東京都民のシンボルキャラクターでもありました。かつて1955年から1997年にかけて、都民の日には「<a rel="noopener" href="https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/purpose/library/reference/alphabet/29693/%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%A6%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AE%E9%83%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%A6%E9%83%BD%E5%96%B6%E6%96%BD%E8%A8%AD%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%8F" target="_blank">カッパのバッジ</a>」が東京都によって製作されていました。</p>



<p>「かっぱ橋本通り」にも「かっば橋道具街通り」にも、多くの河童のイラストや像が見られますが、私たち地元民に特に愛され続けているのが萩原楽一の描いた河童たちです。<br>生前、萩原楽一は地元の子供たちを集めてお絵かき教室を開いていましたが、私もその生徒の一人でした。現在は、父の跡を継いだ清水佐知子さんが二代目萩原楽一として、これらのかわいいかっぱたちを描き続けていらっしゃいます。</p>



<figure class="wp-block-gallery has-nested-images columns-default is-cropped wp-block-gallery-1 is-layout-flex wp-block-gallery-is-layout-flex">
<figure class="wp-block-image size-large"><img decoding="async" width="800" height="800" data-id="2356" src="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-800x800.jpg" alt="" class="wp-image-2356" srcset="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-800x800.jpg 800w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-300x300.jpg 300w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-150x150.jpg 150w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-768x768.jpg 768w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-1536x1536.jpg 1536w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-2048x2048.jpg 2048w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-1-100x100.jpg 100w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></figure>



<figure class="wp-block-image size-large"><img loading="lazy" decoding="async" width="800" height="938" data-id="2357" src="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-2-800x938.jpg" alt="" class="wp-image-2357" srcset="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-2-800x938.jpg 800w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-2-256x300.jpg 256w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-2-768x900.jpg 768w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-2-1310x1536.jpg 1310w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Yaoriki-2-1747x2048.jpg 1747w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></figure>



<figure class="wp-block-image size-large"><img loading="lazy" decoding="async" width="800" height="800" data-id="2355" src="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-800x800.jpg" alt="" class="wp-image-2355" srcset="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-800x800.jpg 800w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-300x300.jpg 300w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-150x150.jpg 150w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-768x768.jpg 768w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-1536x1536.jpg 1536w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-2048x2048.jpg 2048w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Uokin-100x100.jpg 100w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></figure>



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<figure class="wp-block-image size-large"><img loading="lazy" decoding="async" width="800" height="800" data-id="2354" src="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-800x800.jpg" alt="" class="wp-image-2354" srcset="https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-800x800.jpg 800w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-300x300.jpg 300w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-150x150.jpg 150w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-768x768.jpg 768w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-1536x1536.jpg 1536w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-2048x2048.jpg 2048w, https://mybldgtokyo.com/wp-content/uploads/Kappa-Tasuke-Sushi-100x100.jpg 100w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></figure>



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