東京の歴史:江戸期

家康入府直前の東京 東京の歴史
家康入府直前の東京
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江戸という地名は元々隅田川の河口付近のことで、平安時代末期には桓武平氏秩父氏の支流の江戸氏が住んでいました。1180年、源頼朝の隅田川渡河のための舟橋作りに協力したのは、江戸重長でした。
1457年、上杉家の家臣の太田道灌はこの地に江戸城を築きました。当時の江戸城は、まだ小さな平山城でした。その後1524年、江戸城は小田原城北条氏綱の支配下に入りました。
江戸城は北条氏によって、関東の水路と陸路が集中する重要な物流拠点となっていきました。

1590年、豊臣秀吉徳川家康らは氏綱の孫・氏政とその子氏直小田原征伐で破り、家康は関東八国250万石を与えられ、駿府城から江戸城へ拠点を移しました。北条攻めの際、家康が信任する慈眼大師天海と浅草寺の住職・忠豪上人も陣幕にいたそうです。源氏の末裔を自負する家康は、天海の進言もあり、源氏一族からの篤い庇護を受けてきた浅草寺を徳川家の祈願所に定め、寺領500石を寄進しました。

家康がまず着手したのは、水路と平地の整備です。関東最大のの生産地であった行徳からの水路を確保するため、江戸城から東へ道三堀を掘り隅田川に繋げ、隅田川から小名木川を掘り繋げました。道三堀には日本橋が架橋されました。
そして飲み水を確保するため、小石川上水 (後の神田上水)の建設も開始しました。
当時、荒川は利根川に合流し、利根川は千住付近で隅田川に合流し江戸湊に注いでおり、頻繁に氾濫を起こしていました。そのため、利根川は東へ付け替えられ、後に現在のような日本最大の流域面積を持つ川となり、坂東太郎と呼ばれました。そして荒川は、下流が隅田川に合流するように付け替えられました。(その後荒川~隅田川は、明治末の氾濫後に荒川放水路が建設され、それが現在の荒川となりました。)
さらに、神田山を切り崩し、その土で日比谷入江を始め数多く点在していた汐入地を埋め立てました。また、江戸城を拡張すると同時に、周りを多くの内濠・外濠で囲み、防衛・上水・物流能力を向上させました。こうして江戸城は、日本最大規模の広さにまで拡大していきます。

1600年の関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年征夷大将軍に就任、江戸幕府を開きました。これにより江戸は、実質的に日本の政治首都となりました。

隅田川(別名:大川)に最初の橋である大橋(後の千住大橋)が架けられたのは1594年で、その付近に千住宿を設け、江戸の北への玄関口とし、日光街道奥州街道を整備しました。
1601年、江戸前島の尾根道を新たに東海道とし、南の港町に品川宿(現在の品川駅のやや南)を設けました。中山道には板橋宿(現在の板橋区役所付近)が設けられました。
そして1604年には、日本橋を「五街道(日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道・東海道)」の起点として定めました。
五街道のうち甲州街道のみ約100年間、四谷見附門を出てから最初の宿場が高井戸宿で、江戸近郊に宿場がありませんでしたが、浅草の名主であった商人たちが莫大な金額を上納して宿場開設を願い出たことにより、1699年に内藤新宿(現在の新宿駅のやや東)が設けられました。
日本橋を出てから約2里の最初の宿場町、千住宿、品川宿、板橋宿、内藤新宿は江戸四宿と呼ばれました。その後、千住は北へ、品川は南西へ、板橋は北西へ、新宿は西への、江戸・東京市の出入口として発展していきます。

当時、表鬼門の方角である北東と、裏鬼門の方角である南西は、鬼神様の通る神聖な出入口とされ、畏敬の念を持って祀ることが必要であるという迷信が信じられていました。京都の平安京も、北東の表鬼門を比叡山延暦寺、南西の裏鬼門を石清水八幡宮によって守護されていました。
これにならって天海は、家康・秀忠家光の三代に渡って江戸の街づくりに進言をしてきました。
江戸城はそもそも、平氏・源氏を始めとする代々の名門武家の関東支配者から篤い庇護を受けてきた霊験あらたかな浅草寺の南西に建てられており、表鬼門を徳川家の祈願所・浅草寺に守護されている形になっていました。さらに、はるか南西の裏鬼門域内には、徳川家が先祖とした源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮がある位置でした。またさらに、当時は表鬼門方向に筑波山、裏鬼門方向に富士山が江戸からよく見えたはずで、歌川広重の「名所江戸百景」でも頻繁に富士山と筑波山は描かれています。
1598年には徳川家の菩提寺である増上寺を、江戸城の裏鬼門域内の現在のの地に移転しました。
1616年には関東の守護神・平将門公を祀る神田明神を、江戸城の表鬼門域内の現在の湯島台地に移転しました。
1625年に家光は、表鬼門域内の上野の台地に東叡山寛永寺を創建し、芝の増上寺と共に徳川家の菩提寺とし、天海大僧正は自ら初代住職となりました。東叡山は東の比叡山を意味します。
最後に1659年四代将軍家綱は、現在の日枝神社である江戸山王大権現を、裏鬼門域内の現在の赤坂の地に移転しました。
こうして江戸城は、表鬼門を浅草寺・湯島の神田明神・上野の寛永寺、裏鬼門を芝の増上寺・赤坂の日枝神社に守護される強力な霊的布陣を持つ城となり、名実共に日本一の城となったのです。
江戸・東京では昔から、「観音さま」といえば浅草寺、「三社さま」といえば浅草神社、「明神さま」といえば湯島の神田明神、「山王さま」といえば赤坂の日枝神社と、江戸・東京の「神さま仏さま」として親しまれています。後に『東京音頭』や高倉健の『唐獅子牡丹』でも、浅草寺は「幼馴染の観音様」と歌われています。

1616年に徳川家康が亡くなると、その遺言に従い秀忠は久能山東照宮を創建し祀り、そして1617年に日光に日光東照宮を創建し改葬し、「東照大権現」として祀りました。後に家光が絢爛豪華な姿に改築しました。
また芝の増上寺内には芝東照宮も創建されました。さらに1627年には上野東照宮も創建、1651年には家光によって日光に準じた金色殿に改築され、後の上野戦争・関東大震災・東京大空襲も免れて現在もその姿を残しています。これらは、四大東照宮とされています。東照宮においても、江戸城の表鬼門・上野と裏鬼門・芝を東照大権現・家康が守護し、さらに日光東照宮が北東の表鬼門から、久能山東照宮が南西の裏鬼門から、日本一の山・富士山を守護する形となっています。

これらの「神さま仏さま」に守護された浅草・上野・本郷・神田・芝・赤坂、そしてこれらを結ぶ江戸城周辺地域・日本橋等は、多くの人々がおまいりし集い賑わい、江戸の文化・経済・政治の中心地として大いに繁栄していきました。さらに明治・大正・昭和になっても東京市の中心部として、戦後も東京都心部として、さらなる発展を続けていくことになります。

家康以降の徳川歴代将軍は、家光・慶喜以外は菩提寺である芝の増上寺と上野の寛永寺に六名ずつ祀られています。
日光山輪王寺には三代家光公、芝の増上寺には二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公、上野の寛永寺には四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家斉公、十三代家定公の霊廟が祀られました。最後の十五代慶喜公は、大正2年に寛永寺谷中霊園に神式の円墳で埋葬されました。

1657年四代将軍家綱の頃、明暦の大火が起こり、江戸城天守も焼け落ち、江戸時代最大の被害となる10万人ともいわれる死者を出しました。これを契機に、様々な江戸の都市改造が行われました。
当時大川(隅田川)には大橋(千住大橋)しか橋がなく、逃げ遅れた人々が多く犠牲となりました。そのため、隅田川に2番目の橋、両国橋(武蔵国と下総国の両国に架かる橋)が架けられました。そして下総国だった隅田川東岸に本所深川の町を開発し、その後江戸川以西を武蔵国に編入しました。さらに、築地などの埋立地も拡大させました。
その後隅田川には、新大橋永代橋吾妻橋の計5つの橋が江戸時代に架けられました。

さらに延焼拡大を防ぐ防火壁としての役割も兼ねて、家綱は浅草の隅田川両岸に並木を整備しました。後に八代将軍吉宗も、さらなる防火と川の氾濫防止として花見客が土手を踏み固めるため、さらに上野に集中していた花見客の分散のため、1717年隅田川沿いに桜100本を植え足しました。
1625年の上野寛永寺創建の際、天海は奈良の吉野山から桜を運び、境内の至るところに移植していました。これが次第に江戸市民の間で評判となり、1827年に発行された『江戸名所花暦』には、江戸で一番の花(桜)の名所は東叡山(寛永寺)と紹介されました。
こうして上野と浅草は、江戸市民の花見の名所としても人気を博していきました。
江戸時代で最も有名な俳人、松尾芭蕉はこう詠んでいます:「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
その後吉宗は、江戸郊外の御殿山飛鳥山にも桜を整備しました。

また火除地として、広小路の整備も行われました。そして広小路はその後、江戸市民が集まる盛り場として大いに栄えました。中でも、江戸三大広小路として最も栄えたのは、浅草広小路(現在の雷門通り)、下谷広小路(現在の上野中央通り~上野広小路)、両国広小路(現在の東日本橋)でした。
浅草寺境内に出来た仲見世は、日本で最も古い商店街の一つです。また、1662年日本橋に白木屋、1683年日本橋に三井呉服店(現在の三越)、1743年日本橋に大丸屋(現在の大丸)、1768年上野にいとう呉服店(現在の松坂屋)が開店し、白木屋以外は現在も続いています。他にも、江戸の三大繁華街であった浅草、上野、日本橋近辺には、江戸時代から現在も続く店が多く残っています。

こうして江戸は、人口約100万人を超える世界最大の都市となっていったのです。

1867年、第十五代将軍徳川慶喜は大政奉還を行い、江戸時代は終わります。

東京市15区
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