東京の歴史というと、江戸時代からの歴史を思い浮かべる方が多いかと思いますが、江戸時代よりはるか前から浅草は栄えた町でした。また東京の歴史を語る上で、関東を支配し浅草寺を庇護してきた平氏、源氏、足利氏、上杉氏、後北条氏についての言及も欠かせません。
東京の歴史を大別すると、浅草期、江戸期、東京期の3つに分けることもできるでしょう:
浅草期 7世紀~17世紀 飛鳥~安土桃山時代
江戸期 17世紀~19世紀 江戸時代
東京期 19世紀~ 明治~令和時代
ここでは、江戸時代以前の東京、浅草の歴史を振り返ります。
飛鳥時代の628年、隅田川(古くは住田河、須田川、墨田川等々)沿いに、観音像を発見した漁師の檜前浜成・竹成兄弟と土地の長・土師中知(後の三社様)によって、東京最古の寺、浅草寺が創建されました。当時の浅草は小さな漁村で、浅草寺も小さな寺でしたが、645年(日本最初の元号・大化元年)に勝海上人が観音堂を建立し、その後浅草と浅草寺は宗教的な聖地として次第に発展していきました。
飛鳥時代から奈良時代にかけて五畿七道が整備されると、武蔵国と下総国の国境となった隅田川を渡る「橋場の渡し(住田の渡し、白鬚の渡し)」も整備され、交通の要所として浅草は栄えていきました。約3km西、現在の谷中霊園の場所には駅家の「豊嶋駅」も置かれていました。
708年に秩父で銅が発見されたことにより、日本初の流通通貨である和同開珎が発行されると、武蔵国の重要性は大きく増していきました。
771年には、南の海沿いの道の往来が活発になるに従って、武蔵国は東山道から東海道へと変更され、より利便性が増していきました。
後の10世紀に編纂された「延喜式」によると、全国68国は国力により大国・上国・中国・下国の四等級に分類されていましたが、武蔵国は坂東の上野国・常陸国・下総国・上総国と共に、大国13国のひとつでした。
平安時代初期、日本最古の歌物語である伊勢物語が刊行されると、在原業平の東下りとその折の句「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 我が思ふ人は 有りや無しやと」により、隅田川と「橋場の渡し」は都にも広く知られる存在となりました。
平安後期には、二条為子による玉葉和歌集中の句「ことゝへど こたへぬ月の すみだ河 都の友と 見るかひもなし」は後世の江戸時代まで広く親しまれました。
現在の「言問団子」、「言問橋」、「言問通り」、「業平橋」は、これらが元になっています。
898年、桓武天皇の孫にあたる桓武平氏の平高望が上総介に任じられ、その後一族は関東に土着し武士団を形成、坂東平氏として関東の開発を進め勢力を拡大し繁栄しました。坂東平氏はその後、鎌倉幕府で執権を担った北条氏や秩父氏、江戸氏など、多くの坂東武者を生み出していきます。
935年、平氏内の争いから、高望の孫である平将門の乱が始まり、将門は「新皇」を名乗り坂東八国を手中に収め関東の政治改革をはかりましたが、同じく高望の孫である平貞盛や藤原秀郷(藤原北家)らと朝廷によって乱は鎮圧されました。獄門となった将門は怨霊になったという伝説は有名で、現在も千代田区大手町にある将門塚は、移転すれば祟りが起こるとされています。その後1309年、平将門は神田明神に祀られました。
942年、同じく高望の孫である平公雅は藤原秀郷の後任として武蔵守となり、将門の乱によって荒れ果てた浅草・浅草寺を再建、大規模な七堂伽藍を建立、新たに五重塔と雷門を創建、田園数百町を寄進しました。
1028年(藤原道長が亡くなった年、まさに嵐が始まりました)、平将門の娘の子であり平公雅の娘を妻にもつ上総介、平忠常が房総三国で乱を起こしましたが、「道長四天王」の一人だった源頼信が朝廷に遣わされ乱を平定しました。頼信は多くの関東の武士たちを味方につけ、これが源氏が東国で力を持つきっかけとなりました。
1051年、前九年の役が起こり、源頼信の子で陸奥守であった源頼義はその子「八幡太郎」源義家と共に、東国の武士を率いて陸奥国の安倍氏を滅ぼしました。1070年、義家は奥州征討の途次に浅草寺に戦勝を祈願しています。そして1083年、後三年の役が起こり、陸奥守となった源義家が奥州藤原氏(藤原秀郷の子孫)と共に陸奥・出羽の清原氏の乱を平定しました。この時東国武士たちに朝廷からは恩賞は出ませんでしたが、義家は私財から恩賞を出し、これにより源氏は東国武士団の棟梁としての地位を固め、関東は源氏、東北は奥州藤原氏が支配するようになりました。
一方関西では1108年、源義家の子・源義親が出雲国で起こした乱を平正盛が平定したのをきっかけに、上皇に仕える北面武士として、以降忠盛、清盛が伊勢平氏の勢力を拡大させていきました。
1156年、京都で保元の乱が起こり、崇徳上皇側についた源義親の子源為義は、その子である源義朝と平清盛がついた後白河天皇に敗れました。東国で育った源義朝は、東国武士団を率いて戦功を挙げました。源義朝が1142年に浅草寺に奉納した榎観音像は現在も残っています。
しかし1160年、平治の乱で源義朝が平清盛に敗れると、関東は再び平氏の勢力下に入り、義朝の子源頼朝は伊豆へ流されました。
しかしその後頼朝は次第に関東で味方を集め、ついに1180年に挙兵しました。一度は戦いに敗れましたが、再起を図り総州を北上、難関の隅田川では江戸重長の助けを借り舟を繋げて橋を作り渡河、父義朝ゆかりの浅草寺で勝利を祈願し、かつて父義朝と住んだ鎌倉へ入り本拠地としました。1181年、頼朝は鶴岡八幡宮を建て直すために、鎌倉には技術を持った工匠がいなかったため、浅草の宮大工を召し出して工事を完成させました。鶴岡八幡宮の参道である若宮大路は、浅草寺の方角を向くように作られました。
そして1185年、源頼朝はついに平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開きました。
1189年の奥州藤原氏征討の際には、頼朝は戦勝を願って浅草寺に土地を寄進しました。
頼朝はその子実朝と共に、西国三十三観音札所にならって、坂東にも三十三観音札所を制定しました。浅草寺は、東京都内では唯一の札所です。また、浅草寺の御神木のイチョウは、源頼朝が挿した枝が根付いたものと伝えられています。
1338年に室町幕府初代将軍となった源氏一門の足利尊氏は、1352年に浅草寺へ参り、寺領を安堵しました。1413年には、第4代鎌倉公方であった足利持氏が、浅草寺の経蔵を再建して寄進しました。
室町時代には、鎌倉公方の補佐役で武蔵守護も兼任していた関東管領を代々上杉氏が世襲し実質的に関東を支配しており、上杉家家臣の太田道灌は1457年、隅田川の河口付近に江戸城を築いていました。
1495年、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が今川氏の力を借り伊豆・相模に攻め入って小田原城主となり、戦国時代の幕を開けました。
その子北条氏綱(「勝って兜の緒を締めよ」の遺言で有名)は、鎌倉時代に関東を支配した執権・北条氏の姓を名乗り、1523年に武蔵国に進出、1524年には江戸城を奪い支城とし、浅草寺を祈願所とし1539年に堂塔を再建しました。
さらにその子北条氏康は下総に進出、今川義元・上杉謙信(最後の関東管領)・武田信玄と同盟・対決を繰り返しながらも、関東最大勢力の戦国大名となりました。
そして1590年、氏康の子北条氏政とその子氏直が小田原合戦で豊臣秀吉と徳川家康らに敗れたことによって、家康が江戸城へやって来ることになるのです。